美しくもどこか哀愁を帯びたメロディで知られ、日本のフォークソング史にその名を刻む名曲「竹田の子守唄」。1970年代にフォークグループ「赤い鳥」によって歌われ、ミリオンセラーを記録する大ヒットとなりました。しかし、この楽曲は長きにわたり、テレビやラジオから姿を消し、「放送禁止歌」として扱われてきた過去を持っています。なぜ、これほどまでに美しく、人々の心に響く歌が公共の電波から締め出されなければならなかったのでしょうか。そこには、単なる歌詞の問題にとどまらない、昭和という時代が抱えていた社会的な背景や、メディアの自主規制、そして差別問題に対する複雑な意識が絡み合っていました。現在ではその封印も解かれ、再び多くのアーティストによって歌い継がれていますが、当時の騒動の真相を知る人は少なくなっています。本記事では、竹田の子守唄が生まれたルーツから、放送禁止に至った経緯、そしてその裏にある社会構造や現代における再評価まで、タブーとされた歴史を幅広く調査し、解説していきます。
竹田の子守唄が放送禁止歌とされた背景となぜそうなったのか
「竹田の子守唄」が放送禁止歌というレッテルを貼られた背景には、非常にデリケートで根深い問題が存在します。この歌が公の場から姿を消した理由を理解するためには、まずこの歌がどこで生まれ、どのような人々によって歌われてきたのか、そのルーツを正しく知る必要があります。そして、当時のメディアが何を恐れ、どのような判断を下したのか、そのメカニズムを解き明かしていくことが不可欠です。
京都の被差別部落で生まれた守り子たちの労働歌としてのルーツ
「竹田の子守唄」の「竹田」とは、京都市伏見区にある竹田地区を指します。この地域はいわゆる被差別部落と呼ばれる地域であり、この歌はそこで暮らす少女たちが歌っていた労働歌、すなわち「守り子歌」でした。かつて、貧しい家庭の少女たちは、幼い頃から奉公に出され、他人の家の子守をさせられることが一般的でした。学校に通うことも遊ぶことも許されず、背中に赤ん坊を背負いながら、過酷な労働に耐える日々。そんな彼女たちが、自身の辛い境遇や故郷への想い、そして先の見えない明日への嘆きを口ずさんだのが、この子守唄の始まりです。
歌詞にある「盆がきたら」というフレーズは、お盆になれば一時的に家に帰れるかもしれないという切実な願いを表しています。しかし、続く歌詞では「盆がきたとて何うれしかろ」と、帰るための着物も帯もない自身の貧困を嘆き、絶望する姿が描かれています。つまり、この歌は単に赤ん坊を寝かしつけるための優しい歌ではなく、社会の底辺で生きることを強いられた少女たちの、血の滲むような叫びが込められた「抵抗の歌」であり「嘆きの歌」だったのです。このルーツこそが、後の放送禁止騒動の根本的な要因となります。被差別部落という出自が、当時の社会においてタブー視され、腫れ物に触るような扱いを受ける原因となったのです。
メディアによる過剰な自主規制と「言葉狩り」の実態
一般的に「放送禁止歌」と呼ばれる楽曲の多くは、法律によって禁止されているわけではありません。日本民間放送連盟(民放連)などのガイドラインにおいて、「放送に適さない」と判断された楽曲が、各放送局の判断によって放送を自粛するという形がとられています。「竹田の子守唄」の場合も同様で、国が禁止したわけではなく、テレビ局やラジオ局が「自主規制」という名の下に、意図的にこの歌を排除したというのが真実です。
1970年代当時、メディアは部落差別問題に対して極度に神経質になっていました。差別用語や不適切な表現に対する抗議運動が活発化しており、放送局はトラブルを避けるために、少しでもリスクのあるコンテンツを排除する傾向にありました。これを「事なかれ主義」や「言葉狩り」と呼びます。「竹田の子守唄」の歌詞に含まれる「在所(ざいしょ)」という言葉は、本来は「実家」や「故郷」を意味する言葉ですが、関西地方の一部では被差別部落を指す隠語として使われることがありました。放送局側は、この言葉が公共の電波に乗ることで、部落解放同盟などの団体から抗議を受けることを恐れたのです。その結果、歌詞の内容や歌に込められた歴史的背景を深く検証することなく、「触らぬ神に祟りなし」という安易な判断で、放送リストから削除するという措置が取られました。
歌詞に込められた意味と社会的なタブー視の構造
歌詞の中に登場する「在所」という言葉だけでなく、歌全体に漂う暗さや貧困の描写も、高度経済成長期の明るい日本のイメージにそぐわないという判断があったとも言われています。しかし、最大の問題はやはり「被差別部落」というテーマそのものをメディアがタブー視していたことにあります。差別をなくすために向き合うのではなく、その存在自体を隠蔽し、なかったことにしようとする「臭いものに蓋」をする構造が、当時のメディア業界には蔓延していました。
この歌がヒットした1971年は、部落解放運動が高まりを見せていた時期でもあります。そのような社会情勢の中で、被差別部落をルーツに持つ歌がオリコンチャートの上位にランクインし、日本中で歌われるという現象は、ある種の人々にとっては不都合な事実だったのかもしれません。放送局の担当者たちは、具体的な抗議が来る前から、「抗議が来るかもしれない」という恐怖心(予期不安)によって萎縮し、自主的に放送を自粛しました。これは「忖度(そんたく)」の走りとも言える現象であり、誰からの圧力でもなく、メディア自身が生み出した「見えない規制」によって、名曲が葬り去られる結果となったのです。
赤い鳥による大ヒットと突然のフェードアウト
1969年に結成されたフォークグループ「赤い鳥」は、1971年に「竹田の子守唄」をシングルとしてリリースしました。美しいハーモニーと洗練されたアレンジで歌われたこの曲は、瞬く間に人々の心を掴み、ミリオンセラーとなる大ヒットを記録しました。当時の若者たちは、この歌の出自を詳しく知らないまま、そのメロディの美しさに惹かれて口ずさんでいました。しかし、ヒットの最中にあっても、メディアでの扱いは徐々に微妙なものになっていきました。
当初は歌番組などで披露されることもありましたが、放送局内部での自主規制の動きが強まるとともに、突然パタリと流れなくなりました。ラジオのリクエスト番組で上位にランクインしても、曲がかけられることはなくなり、別の曲に差し替えられることも珍しくありませんでした。さらに、シングルレコードの生産も一時的に自粛されるなど、音楽業界全体がこの曲を「封印」する方向へと動いていきました。大ヒット曲であるにもかかわらず、年末の音楽賞レースや紅白歌合戦などの表舞台から完全に締め出されるという、異常な事態が発生したのです。こうして「竹田の子守唄」は、人々の記憶には強く残りながらも、公の場では聴くことのできない「幻の名曲」となっていきました。
放送禁止の解除から再評価までの道のりと竹田の子守唄の現在
長い間、深い霧の中に閉ざされていた「竹田の子守唄」ですが、時代の変化とともにその封印は解かれ、現在では再び多くの場所で耳にするようになりました。なぜ、強固だった自主規制の壁が崩れ、再評価されるに至ったのでしょうか。そこには、誤解の解消や、人権教育の進展、そして歌そのものが持つ普遍的な力が大きく関わっていました。ここでは、放送禁止が解除されるまでの経緯と、現代におけるこの歌の意味について詳しく見ていきます。
部落解放同盟の本当の反応とメディアの誤解
「竹田の子守唄」が放送禁止になった最大の理由は、メディアが「部落解放同盟からの糾弾」を恐れたことにありましたが、これは実はメディア側の大きな誤解、あるいは過剰反応であったことが後に明らかになります。実際には、部落解放同盟がこの歌の放送を禁止したり、抗議を行ったりした事実は確認されていません。それどころか、部落解放同盟の支部の中には、この歌を「自分たちの歴史や文化を伝える歌」として肯定的に捉え、集会などで歌っていた事例もあったのです。
メディア側が勝手に「怒られるだろう」と忖度し、先回りして規制を行っていたというのが真相でした。この事実は、1990年代に入ってから、さまざまな検証番組や書籍によって明らかにされました。当時、差別問題に対して無知であったり、事なかれ主義に陥っていたメディア関係者が、ステレオタイプなイメージで「部落問題=怖いもの」と決めつけ、対話や理解を放棄した結果が、不必要な「放送禁止」という事態を招いていたのです。この誤解が解明されたことは、楽曲の復権に向けた大きな転換点となりました。
1990年代以降の雪解けと人権教育での活用
1980年代後半から1990年代にかけて、日本の社会における人権意識の変化や、メディアの自主規制に対する見直しが進みました。その流れの中で、「竹田の子守唄」も徐々に放送の場に戻ってきました。特に大きなきっかけとなったのは、映画「パッチギ!」(2005年)などでこの歌が印象的に使われたことや、多くのアーティストによるカバーが発表されたことです。これにより、若い世代にもこの歌の存在が知られるようになり、単なる「懐メロ」ではなく、歴史的な意味を持つ楽曲としての再認識が進みました。
また、教育現場においても変化が見られました。かつてはタブー視されていたこの歌が、人権教育や歴史教育の教材として積極的に取り上げられるようになったのです。被差別部落の歴史や、貧困の中で生きた人々の想いを学ぶための入り口として、この歌が持つメッセージ性が再評価されました。音楽の教科書に掲載されることもあり、子供たちが教室でこの歌を歌う光景も見られるようになりました。「隠すべきもの」から「学ぶべきもの」へ。この価値観の転換は、日本社会が差別問題に対して、より成熟した向き合い方を始めた証左とも言えるでしょう。
多くのアーティストによるカバーと歌い継がれる魂
現在、「竹田の子守唄」はジャンルを超えて、数多くのアーティストによってカバーされています。ソウル・フラワー・ユニオン、桑田佳祐、一青窈、夏川りみなど、名だたる歌手たちがそれぞれの解釈でこの歌を歌い継いでいます。彼らは、単にメロディの美しさを表現するだけでなく、この歌が背負ってきた重い歴史や、そこに込められた魂へのリスペクトを込めて歌っています。
特に、阪神・淡路大震災の被災地での演奏活動などで知られるソウル・フラワー・ユニオンの中川敬氏は、この歌のルーツを深く掘り下げ、本来の民謡に近い形での再生を試みました。このように、アーティストたちが積極的にこの歌を取り上げることで、かつての「放送禁止」という負のイメージは払拭され、普遍的な「人間の尊厳を歌う歌」としての地位を確立しました。音楽は、時に言葉以上の力で歴史を語り継ぎます。「竹田の子守唄」は、まさにその力を体現する楽曲として、これからも歌い継がれていくことでしょう。
竹田の子守唄の放送禁止騒動から学ぶことのまとめ
「竹田の子守唄」の放送禁止騒動は、単なる過去の音楽業界の出来事ではありません。それは、私たちが「差別」や「歴史」とどう向き合うべきか、そしてメディアや社会が集団心理によってどのように真実を歪めてしまうかという、現代にも通じる普遍的な教訓を含んでいます。恐れや無知から目を背けるのではなく、正しく知り、理解しようとする姿勢こそが、偏見を乗り越えるための唯一の道であることを、この歌の数奇な運命は教えてくれます。
竹田の子守唄 放送禁止 なぜについてのまとめ
今回は竹田の子守唄の放送禁止についてお伝えしました。以下に、今回の内容を要約します。
・竹田の子守唄は京都市伏見区竹田地区の被差別部落で生まれた労働歌である
・幼くして奉公に出された少女たちが辛い境遇や故郷への想いを歌ったものである
・1971年にフォークグループ赤い鳥がカバーしミリオンセラーの大ヒットとなった
・放送禁止は法律によるものではなく放送局やメディアによる自主規制であった
・歌詞にある在所という言葉が被差別部落を指すため抗議を恐れて排除された
・当時のメディアは部落問題に対して事なかれ主義で過剰に萎縮していた
・部落解放同盟が放送禁止を求めた事実はなくメディア側の忖度と誤解であった
・実際には解放同盟の一部では自分たちの文化として歌われていた事実もある
・1990年代以降に社会の人権意識の変化とともに自主規制が見直され解禁された
・現在は多くの有名アーティストによってカバーされ普遍的な名曲として定着した
・人権教育や歴史教育の現場でも教材として使用され負の歴史を学ぶ端緒となっている
・この騒動は無知と恐れが文化を殺してしまう危険性を現代に伝えている
・放送禁止の歴史を知ることは差別問題の本質を理解するための重要な視点となる
かつては口にすることさえ憚られた「竹田の子守唄」。しかし、その旋律は決して消えることなく、人々の心の奥底で生き続けました。今、私たちがこの歌を自由に聴き、歌うことができるのは、歴史の真実に向き合おうとした多くの人々の努力があったからです。この美しいメロディに耳を傾けるとき、その奥にある名もなき少女たちの祈りと、それを守り抜こうとした歴史の重みを感じていただければ幸いです。

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